「大師のみ足のもとに」はJ・クリシュナムルティが13歳の折、クートフーミ大師という偉大な師匠に教えられたことを、「この教えが私を助けたように他の人々をも助けますように」との思いで世に送った彼の最初の本です。
彼が第一イニシエーションを受ける為の準備としてリードビーターに伴われ、クートフーミ大師の教えを受けた時のものとされています。
クートフーミ大師
この本に書いてあることは私の言葉ではありません。
私を教えて下さった大師のお言葉です。
大師がいらっしゃらなければ私は何もすることが出来ませんでした。
けれども大師のお助けで私は道に足をおろしました。
あなたもまた、同じ道に入ることを願っていらっっしゃいますね。
大師が私に話されたお言葉にもしあなたが従われるならば、そのお言葉はあなたも助けて下さるでしょう。
そのお言葉は真実で美しいなというだけでは充分ではありません。
成功しようと思う人は言われた通り正確に実行しなければなりません。
何か食べ物を見て、それはおいしい食べ物なのだというだけでは、飢えている人を満足させる事は出来ないでしょう。
その人は手を伸ばして食べねばなりません。
同じように、大師のお言葉を聞くだけでは充分ではないのです。
あなたは大師の言われたことを一語一語注意して、どんなちょっとした助言にも従って実行しなければなりません。
もし助言に気が付かず、又一つの言葉でも聞き落とすと、それは永遠に失われてしまいます。
大師は二度はおっしゃいませんので。
この道を歩むための四つの条件は
識別
無欲
善行
愛
この四つのことについてそれぞれ、大師が私に言われたことを、あなたにお話し致しましょう。
1.識別
四つの条件の第一は識別です。
これは普通、真実と不真実を識別することと取られています。
この識別は人々を道へと導くものです。
その通りなのですが、又それ以上の意味もあります。
つまり、道のはじめだけではなく、終わりまで毎日、道のあらゆる段階で識別をして行かなければならないのです。
手に入れる値打のあるものは道でだけ見つけることが出来ると知って、あなたは道に入りますね。
知っていない人々は富と権力を手に入れようと働きます。
けれども、富とか権力とかはせいぜい一生の間だけのもの。
ですから真実ではありません。
こういうものよりもずっと素晴らしいものがあります。
それは真実で永遠に続くものです。
あなたが一度そういうものを知ったならば、もうその他のものは欲しくなくなります。
全世界にはわずか二種類の人々しかいません。
知っている人々と知らない人々です。
この知識は重要なことです。
ある人がどのような宗教を信じ、どのような人種に属してるかということ等は大切なことではありません。
本当に大切なことは、神の人間に対する御計画についての知識です。
神は計画を持っておられます。
その計画は進化ということです。
人間が一度それを見て本当に知ると、それが余りにも素晴らしく美しいので、その御計画の為に働き、それと一体とならずにはいられません。
その人は本当な事が分かるので、神の側にあって善を助け、悪に抵抗し、自分本位にではなく進化の為に働きます。
神の側にある人々は我々の一員です。
その人が自分はヒンズー教ですとか、仏教徒、キリスト教徒やイスラム教徒ですと言おうと、またインド人やイギリス人、中国人やロシア人であろうと、そのような事は全然問題ではありません。
神の側にいる人達は、自分はなぜこの世にいるのか、また何をすべきかを知っています。
やるべきことを行おうとしています。
一方、神の側に居ない人々は皆、何をすべきかをまだ知っていないので、よく馬鹿げたことをします。
そして、すべてのものは一つであるということ、だから一なる神がお望みになることだけが、どんな時にもすべての者にとって本当に楽しいのだということを理解せずに、自分に楽しいと思える方法を考え出そうとします。
こういう人々は真実にではなく、不真実に従っています。
真実と不真実とを区別するようになるまでは、神の側に味方をすることはありません。
ですからこの識別が第一歩なのです。
けれども、あなたが真実と不真実の識別をしたとしても、識別にはまだたくさんの種類があることを覚えておかねばなりません。
正しい事か間違った事か、重要か重要でないか、有益か無益か、真か偽か、利己的なことか非利己的なことか、このように更に識別して行かなければなりません。
正しい事と間違った事の何れを選ぶかは難しくはない筈です。
大師に従いたいと思っている人ならもう、どのような犠牲を払っても、正しい事を選ぶ決心をしているからです。
けれども体と”本当の自分”とは別のもので、本当の自分の意志がいつも体の望むものであるとは限りません。
あなたの体が何かをしたいと望む時にはそれをさえぎり、「あなた自身」が本当にそうしたいと思っているのかどうか考えてみなさい。
本当のあなたは神ですから、神のお望みになることだけをあなたは望むのです。
けれども、あなたの内に神を見出すには、自分自身の中を深く掘り下げて神の声を聞かねばなりません。
その声こそ”本当のあなたの声”なのです。
あなたの体つまり肉体、アストラル体(欲望や感情の面のこと)、メンタル体(知性の面)と”あなた自身”とを取り違えてはいけません。
それぞれの体は、自分が欲しいと思っているものを得る為に、”本当の自分”であるふりをします。
けれどもあなたは、肉体、アストラル体、メンタル体のすべてを知り、あなた自身がその主人であることを知らねばなりません。
やるべき仕事がある時に、肉体は休んだり出歩いたり、飲み食いしたいと思います。
その時、本当の自分を知らない人は
「さあ、休まねば、食べねば」
と自分に言うのです。
けれども知っている人は
「休みたいなどと思っているのは”本当の自分”ではない。
そんなことはしばらく延ばさなければ」
と言います。
誰かを助ける機会のある時に、よく肉体は次のように感じます。
「何とやっかいなことだ。
誰かにやらせよう」
と。
けれどもその時”本当の自分”は肉体に向かって
「善い仕事をしようと思っているのだ。
お前に邪魔などさせないぞ」
と答えるのです。
肉体はあなたの動物、あなたが乗る馬です。
だから肉体をうまく扱い、よく世話をしなさい。
使いすぎてはいけません。
清浄な飲食物だけを適切に与えなさい。
また、ちょっとした汚れもないようにいつも完全に清潔にしておかねばいけません。
なぜならば、まったく清潔で健康な肉体でないと(イニシエーション”秘伝”を受ける)準備という大変な仕事は出来ず、その仕事での休みなく続く緊張に耐えられません。
ところで、いつも肉体を支配するのはあなたでなければいけません。
肉体があなたを支配するようではいけないのです。
アストラル体はいくつもの欲望を持っています。
アストラル体はあなたを怒らせたり、きつい言葉を言わせたいと思っています。
人を妬んだり、お金に貪欲になったり、人々の財産などを羨ましがったり、またあなたをしょげこませたりしたがるのです。
アストラル体はこのような事や、もっと様々な事を望むのですが、それはアストラル体があなたを害しようと思っているからではありません。
アストラル体は激しい振動(感情の動揺など)を好み、その振動をたえず変える事が好きだからなのです。
しかし”本当のあなた”は、このような事はどれも望んでいません。
だから”本当のあなた”の望みとアストラル体の望みとを識別しなければいけません。
メンタル体は自分を高慢に孤立して考えたがります。
自分を偉いと思い、他人を軽んじようとします。
あなたがメンタル体を様々な世事からそらした時でも、メンタル体は自分の為にもくろみ、あなたに大師のお仕事の事や、人々を助けてあげることを考えさせようとせず、あなた自身の進歩はどうなのかと考えさせようとします。
あなたが瞑想する時には、メンタル体は”本当のあなた”が望んでいる一つの事ではなく、メンタル体が望んでいる多くの事を考えさせようとします。
ところで、あなたはこのようなマインド(心)ではないのです。
マインドはあなたが使うためのものです。
だからここで再び識別が必要ですね。
絶えず注意しなさい。
でないと失敗するでしょう。
オカルティズム(密教)は正義と不義の間には妥協を許しません。
どんな犠牲を払わねばならない時でも正しいことを行い、間違った事をしてはなりません。
無知な人がそれをどう思い、何と言おうとも。
あなたは”大自然の秘められた諸法則”を深く学ばねばなりません。
それを知り、いつも理性と常識とを用いて、それらの法則に従って生活を整えなさい。
あなたは重要な事とそうでないこととを区別しなければなりません。
正義と不義に関しては大きな岩のように堅固であって、重要でない事ではいつも人に従いなさい。
あなたはいつも優しく親切で、理性的で、気軽であって、あなたに必要な充分な自由を人々にも残してあげなければいけないからです。
何が行う価値のある事かを知ろうと心がけなさい。
ただし、ものごとの大きさで価値を判断してはいけないことは覚えておきなさい。
直接大師のお仕事の役に立つ小さな事は、世間が善と言っている大きな事よりも、はるかに行う価値があります。
あなたは役に立つ事と役に立たぬ事の区別だけでなく、更にもっと役に立つ事と、あまり役に立たない事とを区別しなければなりません。
貧しい人々に食べ物をあげることは、よい、立派な役に立つ仕事ですが、その人々の魂に糧を与える事は肉体に食物を与えることよりも、さらに立派な有益なことです。
金持ちなら誰でも肉体に食物を与えることが出来ますが、(真理を)知っている人々だけが魂に糧を与えることができるのです。
もしあなたが知っているなら、他の人々も知るように助けてあげるのがあなたの務めです。
たとえあなたがもうどんなに賢くなっていても、この道では学ばねばならない事が沢山あります。
それは大層多いので、ここでもまた識別が必要になります。
何が学ぶ値打のある事かを注意深く考えなさい。
すべての知識は役に立ちますし、いつかあなたはあらゆる知識を持つようになることでしょう。
けれどもほんの一部の知識しか持っていない間は、その知識が一番有益な部分であるように注意しなさい。
神は愛であり智慧でもあります。
だからあなたが智慧を多く持てば持つほど、神を明らかにする事が出来ます。
だから学びなさい。
でもまず第一に、あなたが人々を助けてあげるのに一番役に立つような事から学びなさい。
辛抱強く勉強に励みなさい。
けれども人々に賢いと思ってもらう為とか、又 賢明であるという幸せを得る為に学ぶようではいけません。
智慧のある人だけが賢明な援助が出来るから学ぶのでなければなりません。
どんなにあなたが助けたいと思っても無知だったら、たぶん為になるよりも害を与える事になるでしょう。
あなたは真実と虚偽とを見分けなければいけません。
思想、言葉、行為のどれもが真実であるように学ばなければいけません。
まず、思想について。
これは容易な事ではありません。
世界には不真実な思想や馬鹿げた迷信が沢山あります。
それらのとりこになった人には進歩はあり得ません。
ですから、ある思想を持っているとか、それは何百年もの間信じられてきた事だからとか、人々が神聖と思っている本の中に書かれているというような理由で、その思想をそのまま支持してしまうことの無いようにしなさい。
その問題を自分で考えて、はたしてそれが理にかなっているかどうかを自分で判断しなければなりません。
たとえ一千人がある事に同意しても、その人達が問題について何も知らないのならば、その意見は何の価値も無いということを覚えておきなさい。
道を歩もうとする人々は自分で考えるようにならねばいけません。
というのは、迷信は世界の中で一番悪いもので、完全に脱しなければならない人間の束縛の中の一つです。
人々について、真実な考えを持ちなさい。
人々の事をかれこれ憶測してはいけません。
他人はいつもあなたの事を考えている等と気を回さないようにしなさい。
ある人があなたを害するような事をしたり、当てつけらしい事を言った時にすぐ、
「私を傷つけたいのだ」
と考えてはいけません。
あなたのことなどその人は考えてもみなかったでしょう。
なぜなら人はそれぞれ自分の心配事を持っており、その考えは主に自分自身に向けられているものです。
ある人があなたに怒っているような話し方をした時に、
「私を憎んでいる。私を苦しめるつもりだ」
などと考えてはいけません。
たぶん、その人は誰か別の人や別の事を怒っていて、その時たまたまあなたに出会って、怒りをあなたに向けたのでしょう。
その人は馬鹿げたことをしているのです。
怒りということはすべて馬鹿げています。
けれども、そういう事があったからといって、その人は不真実だと思ってはいけません。
あなたが大師の弟子になった時には、自分の思想と大師の思想を比べて、自分の思想が真実かそうでないか確かめてみるとよいのです。
弟子は大師と一つなのですから、ただ自分の思想を大師の思想の中に戻してみさえすればよいのです。
すると、自分の思いが大師の思想と同じかどうかすぐ分かります。
一致しない時には、それは間違いですから弟子はすぐに思想を変えることです。
大師はすべてを知っておられますし、その思想は完全だからです。
まだ大師に受け入れられていない人々にはそのような事はまるで出来ません。
けれども、たびたび次のように考え直してみると、大層役に立つでしょう。
「この問題を大師はどう考えられるだろうか。
大師だったら、この状況では、どう言われ、どうされるだろうか」
という風に。
大師がなされたり、言われたり、考えられたりすると思えないことは、あなたは決して行なったり、言ったり、考えたりしてはいけません。
言葉の上でも真実でなければいけません。
正確に、誇張せずに話しなさい。
決して何かの動機を他の人のせいにしてはいけません。
その人の大師だけがその人の思想を知っておられます。
あなたの心に浮かんだことの無いような理由で、その人はしているのかもしれません。
あなたが誰かの悪口を聞いた時には、それを繰り返し話してはいけません。
その悪口は嘘かもしれないし、仮に本当でも、何も話さない方が親切なのです。
間違いをしないように、話をする前にはよく考えなさい。
行動にも真実でありなさい。
決して実力以上のふりをしてはいけません。
見せかけはすべて、清く澄みわたる真実の光を覆い隠すものです。
日光が澄みきったガラスを通して輝くように、真実の光はあなたを通して輝くべき光です。
利己的な事と非利己的な事を識別しなさい。
利己的な事には様々な形があるからです。
一つの形の利己的な事をやっと殺したと思っても、一層強い別の形で現われます。
けれども、だんだんあなたは人々を助けようとする考えで一杯になって、自分自身のことを考えるゆとりも時間も無くなるでしょう。
更にもう一つの方法で識別をしなければなりません。
うわべではどんなに悪く見えても、すべての人、すべてのものの中にある神を見分けるようになりなさい。
あなたには兄弟と共通に持っているものがあります。
それによくあなたは兄弟を助けることが出来ます。
それは神の生命です。
彼の内に神の生命を目覚ませる方法を覚えなさい。
彼の内の神の生命に訴える方法を学びとりなさい。
そうすれば、あなたは兄弟を間違いから救うことができるでしょう。
2.無欲
無欲という条件は、多くの人々にとって、難しいものです。
人々は自分の欲望を自分そのものだと思い、欲望や好き嫌いが無くなった時は「自分」はもう無くなっていると思うからです。
しかし、このような人々はまだ大師にお目にかかっていない人々です。
聖なる大師にお目通りした光の中では、いかなる欲望も消えて、ただ自分達も大師のようになりたいという願いだけが残ります。
けれども、あなた方が大師に直接お目にかかる幸せを手にする前でも、もしあなた方が決意をすれば、無欲の段階に達する事も出来ましょう。
識別の所であなたにお話ししたように、大部分の人が手に入れたく思っている富や権力は何の価値もありません。
口で言うだけでなく、本当にそうだと感じた時に、富や権力を手に入れようとする欲望は無くなります。
今までの事は皆簡単な事です。
あなたが理解しさえすればよい事です。
しかし天国に至る為や、再生(生死のめぐり)から自分が自由になる為にだけ、世俗的な目的を追求するのをやめる人々もいます。
あなたはそういう誤りに陥ってはいけません。
もしあなたが自分の事をすっかり忘れてしまったら、いつ自分は自由になるのだろうとか、どういう天国を得るだろうかなどと考えている筈はありません。
利己的な欲望はすべて、その目的がどんなに高くても、束縛するものだという事をよく覚えておいて下さい。
あなたが利己的な欲望を捨て去ってしまうまでは、大師のお仕事に、まったく自由に献身奉仕する事は出来ません。
利己的な欲望がすべて無くなってしまった時でも、自分がした働きの結果を見たいと思う欲望はまだ残っているでしょう。
あなたが誰かを助けてあげた時には、どれだけその人の役に立ったかを見届けたく思うでしょう。
また恐らく、その人にもあなたの助力の効果を見てもらいたいとか、自分に感謝して欲しいとか思うでしょう。
けれどもこれもやはり欲望です。
同時に、信頼が足りないのです。
あなたが助けようとして力を尽くした時には、あなたがその結果を知っても知らなくても、必ずある結果があります。
もしあなたが「原因と結果の法則」を知っているのならば、当然、そのように結果の生じる事が分かるはずです。
だから、あなたは報酬を望むことなく、正義の為に正義を行いなさい。
結果を見る為にでなく、仕事のために仕事をしなさい。
あなたは人々への奉仕を愛し、奉仕の為に献身せずにはいられないという理由で、自分自身を世界の奉仕に投げ出しなさい。
霊能力を得ようと望んではなりません。
霊能力を持つ事があなたに一番いいと大師が知られた時に、その力はおこって来るものなのです。
霊能力をあまりにも早く得ようとすると、様々な障害が起こることが度々あります。
霊能者は悪知恵にたけた自然霊によって悪行をさせられたり、またうぬぼれて、自分は決して過ちを犯す筈が無いと思うように、よくなるのです。
霊能力を得る為に使う時間と力があるのなら、それを他の人々の為に働く事に使うと良いでしょう。
霊能力は進歩すればおこるものです。
必ずおこって来ます。
霊能力を早く持つ事があなたの役に立つと大師が思われたならば、大師はあなたに、完全に霊能力を表わす方法を言って下さるでしょう。
その時までは、霊能力は無い方が良いのです。
普段の生活によくおこる小さな欲望にも又、注意しなければなりません。
人の目につこうとしたり、賢く見せようとしてはいけません。
また、何か話したいとも思わぬようになさい。
口数の少ない事は良い事です。
言おうとする事が、真実で、親切で、役に立つ事だと確信が持てないのなら、何も言わない方がもっと良いのです。
あなたが言おうとする事が、この三つの条件を備えているかどうか、言う前によく考えてみなさい。
そうでない事だったら、言わぬようにしなさい。
今でも、話す前に注意深く考える事に慣れておくとよいです。
なぜならば、あなた方がイニシエーションを受ける時には言ってはならぬ事を言わぬよう、一語一語に注意しなければならないからです。
日常の雑談のほとんどは、必要の無いつまらぬものです。
人の悪噂はいけない事です。
だから、話そうとするよりも聞こうとする習慣をつけなさい。
直接たずねられるまでは意見を述べないようにしなさい。
道行く者の四つの条件について、ある説では次のように言っています。
”知る、敢行する、決意する、沈黙する。”
最後の沈黙することは最も難しいことです。
もう一つのよく起こる欲望、人の事におせっかいをしたいと思うことを、あなたはしっかりと抑えなければなりません。
人が何を行い、何と言い、何を信じているかは、あなたの知った事ではありません。
その人のなすままにしておくようにならねばいけません。
他人を害しない限り、人間は自由に考え、話し、行う完全な権利を持っています。
あなた自身も自分が正しいと思っている事を行う自由を主張していますね。
同じ自由を他の人にも認めなさい。
他の人がその自由を行使している時に、彼のことをとやかく言う権利はあなたにありません。
彼は間違った事をしていると思った時、その人に個人的に、そして充分丁寧にどうしてそれがいけないのか話してあげる機会を見つける事が出来るなら、彼を納得させる事は出来ます。
しかしそうすることも、多くは、不適当な干渉になるでしょう。
また、決してそれを第三者にふれまわってはいけません。
これは大層いけない事ですから。
もし誰かが子供や動物にむごい仕打ちをしているのを見たならば、それをやめさせるのがあなたの義務です。
誰かを教えるようにまかされた時には、その人の欠点をやさしく忠告してあげる事があなたの義務になるでしょう。
そのような場合以外は、自分の仕事に心を配り、沈黙の美徳を学ぶようになさい。
3.善行
「善行」について特に大切な六つのことを、大師は次のようにあげておられます。
1.心(マインド)の自己統御
2.行為の自己統御
3.寛容
4.快活さ
5.専念(志操堅固)
6.信頼
この六つの中のいくつかは、この道の為の条件のよび方ではありますが、別の言葉で説明されている事もあります。
この本では大師御自身が私に説明して下さった時に使われた名称を用います。
1 心の自己統御
「無欲」という条件は、アストラル体を統御せねばならぬ事を教えます。
さらにメンタル体についても同じ事を教えます。
つまり、怒ったりいらいらしないように気分を支配し、考えがいつも平静で沈着であるように、心そのものを統御し、神経が出来るだけ興奮しないように心で統御しなければなりません。
最後の神経を安静させることは難しいことです。
あなたが道に入る準備をする時には決まって、あなたの体は敏感になり、感覚は音や刺激に簡単に乱されるようになり、どんな圧迫も大きく感じます。
けれども最善を尽しなさい。
平静な心とは勇気の事でもあります。
だから平静な心を持てば恐れずに道の試練や困難に立ち向かう事が出来るのです。
平静な心は又、着実さでもあります。
ですから、人生の様々な苦しみを和らげ、多くの人々がくよくよと考えて無駄に時を過ごしているささいな事を、あまり気にしなくなります。
大師は次のように教えておられます。
つまり外部から人間に起こる事、例えば、悲しみ、困難、病気、損害などは少しも問題ではありません。
それはみな、人間にとって無に等しいものに違いありません。
ですから、そのような事に心の静けさを破らせてはなりません。
悲しみや心配等は以前に行なった事の結果なのです。
悪い事はすべて一時的なものであるという事、いつも楽しく平静にしているのが義務だということを覚えておいて、苦しい事がやって来た時にはいつも快活に耐えなさい。
悲しみや困難などは過去の生涯のものであって、この生涯のものではありません。
あなたはそれを変える事は出来ませんから、くよくよしても何の役にも立ちません。
それよりも、今している事を考えなさい。
今していることは今後の生涯に起こる出来事の原因になるでしょう。
今していることならば変える事が出来るのですから。
みじめな気持ちになったり、しょげたりしてはいけません。
意気消沈はいけません。
そんな気持ちが他の人にも悪い影響を及ぼして、その人々の生活をつらいものとするのです。
あなたには他人にそのようなことをする権利はありません。
だからそんな気持ちが起こった時には、すぐにそれを捨ててしまいなさい。
もう一つ別な方法で、思いをコントロールし、あちこちと心移りしないようにせねばなりません。
あなたが今している事がどんな事であっても、それが完全に出来るように、考えをそこに集中しなさい。
心を怠けさせず、心の中にはいつも良い思いを持っていて、心が何かから解放された瞬間にその良い思いが出てくるようにしておきなさい。
あなたの思いの力を毎日良い目的に使い、進歩への力としなさい。
悲しんだり、苦しんだり、助けを求めていると思われる人の事を毎日考え、愛の思いを彼に注ぎなさい。
あなたの心を、高慢にしなさるな。
高慢は無知の生み出したものに過ぎません。
”知らない人”は自分は偉いとか、様々な大きな事をしてきた等と考えます。
しかし、賢者は、神だけが偉大であり、善い仕事はすべて神によってなされる事を知っています。
2 行為の自己統御
あなたの思いが正しいならば、あなたの行動にはほとんど心配は無いでしょう。
けれども人類の役に立つ為には、思いは行動とならねばならぬということを覚えていなさい。
怠けてはいけません。
いつも善い仕事を行わなければいけません。
けれども、あなたが果たすのは自分の義務であって、人の義務をしてはいけないのです。
他の人の仕事をしてあげるのは、その人の許しを得た時か、その人を助けてあげるつもりの時でなければいけないのです。
一人一人が、その仕事を自分流にやるようにしておきなさい。
その人に助けが必要ならば、いつも力を貸してあげる用意をしておきなさい。
でも決して干渉してはいけません。
多くの人がこの世で覚えねばならない事で一番難しいのは、自分の仕事を心にとめるという事です。
それこそ正に、あなたがやらねばならぬ事です。
あなたは高度な仕事にとりかかろうとするからには、日常の仕事も忘れてはなりません。
それが出来上がらない内は、他の仕事をする自由はあなたには無いからです。
あなたは新たに世俗的な事を始めるべきではありませんが、今携わっている仕事は完全に果たさなければなりません。
その仕事というのは、あなた自身が認めている、はっきりとした、無理でない義務であり、他人があなたの義務だと想像して、あなたに押し付けようとしているものではありません。
あなたは大師の弟子になるつもりなら、普通の仕事を人よりも上手にせねばなりません。
まずくやってはいけないのです。
あなたはそれを、大師の御用としても行わねばいけないのですから。
3 寛容
あなたはすべてのものに、完全に寛容でなければなりません。
また、別の宗教の教義にも、自分達の宗教と同じように進んで関心を持ちなさい。
他の宗教もやはり、最も高いものに至る道です。
すべてのものを助ける為には、すべてのものを理解しなければなりません。
けれども、このような完全な寛容さを得るには、まず頑迷と迷信から自由にならねばなりません。
あなたは、何の儀式も必要ではないという事を学ばねばいけません。
そうでないと、儀式を行わない人々よりも、自分の方がいくらかでも優れていると考えてしまうでしょう。
けれども、まだ儀式にしがみついている人々を非難してはいけません。
好きなようにさせてあげなさい。
その人が、真理を知っているあなたの邪魔をしなければいいのです。
その人は、あなたが成長してもう脱してしまったものを、あなたに押し付けてはならないのです。
何事にもその事情を汲み取ってあげなさい。
何事にも親切になさい。
あなたの目は開かれたので、昔の信仰、昔の儀式は馬鹿らしいと思えるかもしれません。
たぶん、いや実際、それは本当に馬鹿らしいものです。
あなたはもう、それに関係する事はありえませんが、それがまだ大切な、善良な人々の為に尊重なさい。
古い信仰、儀式はその職分と役目を持っているのです。
それは丁度、あなたが子供の時、真っ直ぐ綺麗に字を書くしるべとなってくれた二本の線のようなものです。
後にはもう、その線が無くてもあなたはもっとずっと上手に字が書けるようになりました。
あなたにもその線が必要だった時があったのです。
けれども今はそうではなくなりました。
ある大師が昔、次のように書かれました。
「私が子供の頃には、子供らしく話したり、子供らしく理解したり考えたりした。
けれども大人になった時、子供らしい事をやめてしまった事により、幼年時代を忘れ、子供に同情できなくなっては、子供を教え助ける事は出来ません。
だから、すべてのものを親切に、優しく、寛大に見なさい。
仏教徒もヒンズー教徒もジャイナ教徒も、ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒も、すべてのものを同じように見なさい。」
4 快活さ
苦しみがやって来たことは名誉なのだと思って、自分のカルマがどんなものであっても、快活に耐えねばなりません。
それは「カルマの主」があなたを助ける値打のある者と思っておられる証拠なのです。
どんなにつらくても、更に一層悪いものでなかったことを感謝しなさい。
悪いカルマが除かれて、あなたが自由になるまでは、あなたはほとんど大師のお役に立っていない事を覚えておきなさい。
自分自身を大師に捧げる事で、あなたはカルマが速く済むようにと願ってきました。
そして今、あなたは今、百生にも及ぶような事を一生か二生の中に成し遂げる事を願っています。
けれども、カルマからもっと良いものを得る為には、あなたは快活に喜んで、それに耐えねばなりません。
もう一つ大切な事があります。
それは、あなたの所有についての一切の感情を捨ててしまえ、ということです。
カルマは、あなたの一番好きなものや、一番愛している人々でさえも取り上げてしまうかもしれません。
それでも、あなたは何時でもどんなものでも、皆手放す覚悟をして快活でなければなりません。
大師は御自分の召使いを通してお力を、人々へと注がれねばならない事がよくありますが、その召使いが打ち沈んでしまっていたら、そうなさる事が出来ません。
だから快活という事は、”善行”の為の規則でなければならないのです。
5 専念
あなたが心にとめて置かねばならない只一つの事は、大師のお仕事をすることです。
他にどのような事をするようになっても、大師のお仕事だけは忘れてはなりません。
けれども人の助けになる非利己的な仕事は、みな大師のお仕事ですから、大師のお仕事でない他の事等に出会うはずはありません。
そしてあなた方は、それを大師の為に行わねばなりません。
それをする時には小さな部分にも最善を尽し、一つ一つに出来るだけの注意を傾けなさい。
前にあげた大師は、また次のように書いておられます。
「何事を行うにも心からそれを行え。
主の為に行い、人の為に行うな。」
もし大師がすぐにあなたの仕事を見に来ようとされているとあなたが知ったなら、あなたは自分の仕事を、どのようにするだろうかと考えてみなさい。
その時と同じようにすべての仕事をしなければいけません。
よく分かる人々には、大師の言葉の意味が、全部よく分かるでしょう。
もっと古い言葉で、もう一つそれと似た聖句があります。
「しなければならぬと知った事はすべて、力の限り行え。」
専念とは又、あなたの入った道から瞬時も向きを変えない事です。
誘惑も、世俗的な楽しみも、世俗的な愛情さえも、あなたを引きつけてはいけないのです。
あなた自身が道と一つにならねばならないからです。
道があなたの性質の大部分になり、道の事を考える必要もなく道に従い、そして決して道をそれる事の無いようにならねばいけません。
モナドである本当のあなたが道を決めたのです。
道から離れる事は、あなた自身から離れる事になるのです。
6 信頼
あなたは自分の大師を信じなければいけません。
あなたは自分自身を信じなければなりません。
もしあなたが大師にお会いした事があるなら、何度生死を重ねても、全身全霊を尽くして大師を信じる事でしょう。
あなたがまだ大師にお会いしてないのならば、大師を理解し、大師を信じるように一層努めなければなりません。
あなたがそうしなかったら、大師でさえあなたを助ける事が出来ないのです。
完全な信頼が無ければ、愛と力の完全な流れはあるはずがありません。
あなたは自分自身を信じなければなりません。
あなたは自分の事はもうよく知っていると言いますね。
そう思うのでしたなら、あなたは自分自身を知ってはいません。
あなたはよく泥沼に落ち込む、外側の弱い殻を知っているに過ぎません。
けれども本当のあなたは神御自身の火の一つの火花なのです。
全能の神はあなたの中におられます。
だから、あなたがしようと思うならば、出来ない事は何も無いのです。
自分自身に言いなさい。
「人間のした事なら人間には出来るはずだ。
私は人間だ。
その上、人の内なる神でもある。
私にはこれは出来る。
だからやろう。」
と。
ですからあなたが道を歩もうとするのならば、あなたの意志は鍛えられた鋼鉄のようでなければならないのです。
4.愛
すべての条件の中でも愛が一番大切です。
人の内に愛が大層強い時には、愛はその他の条件を皆習得させてくれます。
愛が無ければその他のものを全部得ていたとしても、決して充分ではありません。
愛とは、生と死の輪廻から解放されたいという強い願いとか、神と一つになりたいという強い願いという風によく説明されています。
けれども愛をそんな風にとるのは自分本位に聞こえますし、また愛の意味をほんの少ししか表わしていません。
愛とは、願いと言うよりはむしろ、意志とか決心決意ということです。
この決心が他のどんな感情も残る余地が無い程に、あなたの性質の全部を満たさなければ、愛の結果というものは生まれません。
愛とは本当に神と一つでありたいという意志なのです。
あなたが悩みや苦しみから逃れる為にではなくて、神を深く愛するので、神と共に働き、神がされるように働きたいから神と一つとなりたいのです。
神は愛なのですから、あなたは神と一つになろうとするならば、完全に利己的なことを離れ、完全な愛で満たされていなければなりません。
日常の生活では、愛には二つの意味があります。
まず、どんな生き物も害さないこと、次は、いつも助けてあげる機会を待ち構えていることです。
第一の”害さない”ということ、この世のどのような罪よりも害となる三つの罪があります。
それは人の悪噂、残酷、迷信です。
この三つは愛に反する罪です。
心を神の愛で満たそうという人は、この三つの事に絶えず注意しなければなりません。
悪噂がどうなるか考えてごらんなさい。
それはまず悪意に始まります。
一体、悪意自身が一つの罪なのです。
なぜならば、あらゆる人やものの内には善もあり、又悪もあります。
私達が善悪のどちらかを考えることで、それを強める事が出来ます。
そして、この方法で私達は進化を助ける事も妨げる事も出来るのです。
私達は神(ロゴス《宇宙意識》)の意志を行う事も、ロゴスに逆らう事も出来ます。
ところで、あなたが他のものの内にある悪を考えるならば、あなたは同時に三つの間違った事をしている事になります。
その三つの事とは、
1. あなたは近所の人々を善意では無く、悪意で満たそうとしています。
そのようにして、世の悲しみを増しています。
2. その人の内にあなたが考えているような悪があるとすれば、あなたはその悪を一層強め、養うようにしています。
そうして、あなたの兄弟を良くはしないで、一層悪くしています。
大体、悪は実際には無いのに、あなたが只あるように想像していたに過ぎないのです。
そして、あなたの間違った考えは、兄弟が悪い事をするように仕向けます。
何故なら、彼がまだ完全になっていないと、あなたは彼にあなたの思った通りをさせてしまうからです。
3. あなたは自分の心を善意でなく悪意で満たし、あなた自身の成長を妨げてしまいます。
そして見る事の出来る人々には、あなた自身は美しく愛らしいものと見えずに、醜い、苦しみに満ちた者となってしまっています。
悪噂をする人は、自分とその犠牲者を害する事で満足しないで、出来るだけ他の人々もその悪の共犯者にしようとします。
彼は熱心に意地悪な噂話を人々が信じてくれるように望みながら話します。
それで人々も噂の主と一緒になって、その哀れな被害者に悪意を注ぎます。
この事が毎日毎日続けられて、とうとう数千人の人々が話すようになります。
さあ、悪噂がどんなに卑劣で恐ろしい罪であるかが分かり始めましたか、あなたは絶対に悪噂をしてはいけません。
決してどのような人の悪口も言ってはなりません。
誰かが人の悪口を言っていても、耳を傾けずに穏やかに言いなさい。
「たぶんそれは本当では無いでしょう。
それに例え本当だとしても言わない方が親切です。」
と。
次に残酷さについて。
これには故意なものとそうでないものの二種類あります。
故意の残酷とは、わざと他の生き物に苦痛を与えるという事で、すべての罪の中でも一番の大罪です。
人のやる事というよりむしろ悪魔のやる事です。
誰もそんな事が出来るはずが無いとあなたは言うかもしれませんが、人々はたびたびそれをしてきました。
今も毎日しています。
異教徒審判所の判官はそれをしましたし、多数の宗教的な人々は、自分の宗教の名でそれをしました。
生体解剖者もしました。
こういう人々は皆、それが習わしだと言って自分達の残酷な行為を弁解します。
しかし、多くの人々が犯しているからと言っても、罪悪は罪悪である事に変わりありません。
カルマは習慣等は考慮しません。
それに残酷さのカルマは一番恐ろしいものです。
少なくともインドでは、そのような習わしです等という言い訳は出来ません。
害さないという義務が、あらゆる人々によく知られているからです。
残酷さのもたらす運命は、神の創造物をわざと殺しに出かけて、それをスポーツだ等と呼んでいるすべての者の上にも降りかかるに違いありません。
このような事は、あなたは決してしないだろうという事を私は知っています。
そして神の愛の為に機会があればあなたははっきりと、そんな事はやめるように人々に言うでしょう。
しかし行為の場合と同じように、言葉についても残酷があります。
人を傷つけるつもりでものを言う人は、残酷というこの罪を犯すことになります。
それも又、あなたはしないでしょう。
けれども時々、不注意で言った一言が意地悪な言葉と同じ位、害がある事があります。
ですから知らずに行う残酷さにも注意しなければなりません。
”知らずに行う残酷”は普通思いやりの無い事から起こります。
或る人は非常に貪欲になっている為に、充分給料を払わなかったり、妻子を半ば飢えさせたりして、他の人に与えた苦しみについて考えてもみません。
また別の人は、自分の欲望の事だけを考えて、それを満たすのにどれ程の人々の心と体を台無しにしているかを少しも考えません。
又、ちょっとした面倒を骨惜しみして、雇い人達に決まった日に給料を支払ってやらず、彼らに与えた窮迫について何も考えない人もいます。
そのように、多くの苦しみが不注意つまり、一つの行為が人々に与える影響について考える事を忘れる為に生じます。
けれどもカルマは決して忘れはしません。
そしてカルマは、人が忘れていたという事も考慮しません。
あなたが道に入りたいのなら、”思いやりのない残酷さ”を犯す事の無いように、あなたの行う事の結果について考えなければなりません。
迷信はもう一つ別の大きな悪です。
しかもずっと恐ろしい残酷さを引き起こしてきました。
迷信の奴隷になっている人は賢明な人々を軽蔑して、自分がしているように行うよう、強制します。
動物は犠牲にされるのは当然だという迷信、そして人は肉食を必要とするという、更に残酷な迷信によって生み出された恐ろしい屠殺について考えてごらんなさい。
我々の愛するインドの下層階級に、迷信がもたらした仕打ちを考えてごらんなさい。
そして同胞愛の義務を知っている人々の間にすら、この悪習はどんなに心無い残酷さを生じさせるものかという事を考えなさい。
この迷信という悪魔に動かされて、愛の神の名において多くの罪が犯されてきました。
だからあなたの中に迷信の痕跡すら残らないように注意しなさい。
あなたはこの三つの大きな罪―――人の悪噂、残酷、迷信―――を避けねばなりません。
それらはあらゆる進歩にとって致命的なものですから、また、この三つは愛に反していますから。
けれどもこのように悪を控えるだけでなく、積極的に善を行わなければなりません。
あなたは奉仕に対する強い願いで満たされていなければいけないのです。
それで人間だけで無く、動物や植物にも奉仕するように、周りのもの全部に気を配らなければなりません。
奉仕が習慣となるように、毎日、小さな事で奉仕をせねばなりません。
大事をなすべき時が来た際に、その滅多に無い機会を取り逃がさないようにするためです。
神と一つになりたいと熱望するのは、あなた自身の為にではなく、神の愛が同胞に流れ込む通路にあなたがなる為なのですから。
道にいる者は、自分自身の為ではなく、他の人々の為に生きているのです。
このような人は人々を助ける為に自分の事は忘れています。
この人は神の御手にあるペンのようなものです。
ペンを通して神のお考えが流れ、ここに書き下ろされているのです。
ペンが無ければ、それは出来なかったでしょう。
同時に又、道にいる者は生きている火の柱であり、自分の心を満たしている神の愛を世界中に放っているのです。
あなたに人助けが出来るようにする”智恵”、智恵を差し向ける意志、”意志”を鼓吹する”愛”これらはあなたの条件です。
意志、智恵、愛はロゴス(神)の三つの面です。
ロゴスへの奉仕に加わりたいと思っているあなた方は、この三つの面を世界に示さねばなりません。
大師の御言葉を待ち望みつつ
秘められし光をうかがい
この世の戦いの只中に
大師の命令を捕らえんと耳傾く
群集の頭上を越えて
いとかすかなる合図を見
大地の喧しき歌声をよそに
大師のかそけき囁きをきく |